十紀夫語録

打田十紀夫オフィシャル・ブログ

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ヘーシンクと山本小鉄。。。

このところ、また相次いでプロレス界の大物が亡くなりました。アントン・ヘーシンクと山本小鉄さん。自分がリアルタイムでその活躍を見てきた人たちが、ひとり、またひとりといなくなっていくのは本当にさみしいです。

ヘーシンクは、東京オリンピックで金メダルを獲得するなど、世界の柔道界で輝かしい実績を残した柔道家。その知名度に日本テレビが目を付けスカウトし、ジャイアント馬場さんの全日本プロレスに1973年に入団し、5年ほど日本でプロレスラーとして活躍しました。私自身、柔道をやってましたので、ヘーシンクにはかなり期待して注目して見てました。ところがこのヘーシンク、本当に強かったのですが、見せ方が下手で、試合にあまり緊迫感がなかったことを記憶しています。一流のレスラーはやられているときの悲壮感でも、観客を惹きつけるのです。強いだけでは、プロレスの試合は成り立ちません。

結局、プロレスに馴染めず、大きな実績を残せないままプロレス界からは引退しましたが、そんなヘーシンクの試合で今でも記憶に残っているのが、ゴリラ・モンスーン(故人)との“柔道ジャケットマッチ”(1974年)。試合はヘーシンクの勝ちでしたが、相手がWWWF(今のWWE)の大物で試合巧者のモンスーンだったことで、なんとか形になった印象でした。当時高校生だった私は「う〜ん、プロレスって難しいよな〜」と考えさせられました。ヘーシンクがもう少しプロレスに順応してくれていれば、馬場さんのその後の全日本プロレスの運営が楽だったかも知れませんね。。。ヘーシンクはプロレスを引退した後は、また柔道界に戻り、後進の指導や柔道の普及に尽力されたとのことです。

山本小鉄さんは、アントニオ猪木が旗揚げした新日本プロレスに参加して、テレビの解説を務めたり、“鬼軍曹”として選手の指導に当たるようになってから人気者になりましたが、私は彼の日本プロレス時代の試合ぶりもよく覚えています。星野勘太郎とのタッグ・チーム“ヤマハ・ブラザーズ”の小気味のいい試合は、前座戦線を大いに盛り上げたものでした。でも、私が山本氏の試合で一番印象に残っているのが、なんとこれもまたゴリラ・モンスーンとの試合(1969年)。日プロ第11回ワールド・リーグ戦の公式戦で、モンスーンのフライング・ボディ・プレスを自爆させ、誰もが予期せぬ大金星を挙げたのでした。

その試合のおかげで、ボボ・ブラジルと並んで優勝候補のひとりだったモンスーンが脱落。優勝戦線が混沌とし、最終的にアントニオ猪木の初優勝にもつながったのでした。“ジャイアント馬場4連覇ならず!”…そのときからすでに熱狂的な馬場さん信者だった私(当時小学5年)は、悔し涙を流したのでした(その翌年から馬場さんは、また3年連続優勝しましたけどね!)。とにかく、その第11回ワールド・リーグ戦で、プロレス界の“政治”的な部分などを色々学ぶことにもなったので、山本小鉄さんのモンスーン戦は忘れることはできません。ちなみに、この第11回ワールド・リーグ戦にまつわるウラ話、そして、その後の日本プロレスの分裂、全日本プロレスと新日本プロレスの興行戦争…これらのディープな話は、私のライヴの打ち上げで、酔っぱらった私からさんざん聞かされた方も多いかも(苦笑)。

アントン・ヘーシンクと山本小鉄さん…プロレス界に貢献されたこのお二人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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